2011年07月13日

0マン・1

0マン・1




「WORST」の事を書いたので、「では、何が良質なマンガ」か・・・を書いておかなくてはなりません。
まあ、色々と御座いますが、まずはこれですね巨人「手塚治虫」の大傑作「0マン」です。

私は、「少年サンデー」の創刊号から読んでおりました。この時の手塚作品は「スリル博士」でしたが、そうこうしている内に、この「0マン」の連載が開始されました。

私が「手塚治虫」の事を書き出すと、本当の意味で「長く」なってしまいますので、今回は「0マン」に絞り、それもサッと流す事にいたします。

この「0マン」は兎にも角にも物凄く完成度の高い作品であります。そして、この作品で「SFマンガ」と言うものが確立・完成されたと思っております。

全編に溢れんばかりの「人類とその未来」に対する愛情が読み取れます。

時は昭和30年台前半、日本国中がそれこそ「一丸」となってただただ、ひたすらに「未来」に向かって動いて行った、まさにその時代でした。

「高校をシメる」等と言うわけの判らない「暴力」三昧の世界とはおよそかけ離れた物語です。

ジャンルが違う云々じゃ御座いません。作者の質が違ったのです、そして担当者の質が違ったのです。

元々、誰もが「暴力的マンガ」は好きなのです。「血」の中にそう言う要素は誰もが内包しているのです。

ですから、「暴力的内容」を作品にすれば「受ける」のです。元々に「求められている」ものなのですから・・・。

でもね、だからと言ってそう言うものを「作品」にしてはいけないのです。

「戦争」「戦争」と叫んでいる内に本物の「戦争」になっちゃうのです。その時に「国」は何と言いますか、「国民が求めている」・・・ですよ。

「暴力的マンガ」を出せばある程度は受けますから「出版社」が言います「読者が求めている」・・・本当にそうでしょうかね?

だから、意味も無く「暴力マンガ」を読んでいると段々と妙な事になって来るのですな(洗脳・・・と言う事じゃなくてね)これが恐ろしいのです。「面白ければそれで良い」「売れればそれで万々歳」・・・良いのでしょうかね?

「米国」は元々が「暴力的な国家」なので、「暴力」には非常に厳しいです。

かって、「手塚治虫」自身も、あの「ウオルト・デイズニー」に「アトム(アストロボーイ)は暴力的なカーツーン(動画)」と言われた事もあります。

「暴力」はいけません。如何なる理由があろうとも「肯定」してはならないのです。

「手塚治虫」は「エロ」は良いが「暴力」「グロ」はいけない・・・。と繰り返し私達に教えてくれました。「COM」での話しです。これは別の時に書きます。

まだまだ続く・・・。次回「0マン・2」へ。



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